すしの数え方 一個/一貫

かつてはすしを一貫二貫と数えるのは、付台(カウンター)の内側にいる人たち(職人)でした。でも最近はお客様側でも同じように言う方も増えてきました。

かつてのすしの握り(しゃり)は大きく、一口では食べにくいので、包丁で二つに切って出したのが、その後、すしが小さくなった後も、すしの立ち食いはふたつづつ出す、ということになったそうです。

一貫という呼び方は、あの握りの中に職人が、一貫目に相当する気持ちを込めて握ったもの・・・ですから、一貫と意味には、店によっては、2個を一貫と表現する店もあるとか・・・
そうした意味で、立ち食いの値段には、1個、2個で表示しました。



現在でも昔の大きな握りのすしは房州方面にはあります。でも、もちろん主流は普通のすしですが、特別な名称をつけて伝統を守っている店もあります。館山方面に行かれたら、一度は召し上がってみたらいかがですか・・・・
(一度見れば、その大きさにびっくりします。コンビニのおにぎりほどの大きさのシャリに、種がのっています)


八百八町鮨往来

  コハダは江戸の風物詩

中山  幹

上方から伝わった「押しずし」や「箱ずし」を、現在の主流である「握りずし」へと変えていったのは江戸っ子たちだった・・・・・

別冊サライ 平成10年4月19日発行 「小学館」より抜粋

握りずしの誕生の場所が江戸であることは間違いないが、いつ、誰が考えついたのかは、いまだに解けない謎である。それまで江戸の町のあちこちにあった屋台の鮨は、「」 の字のほうがふさわしい上方の押しずし、または箱ずしだった。そこへ突如として握り鮨が現れ、たちまち大人気の食べ物となって、上方の酢を圧倒してしまったのだ。

東都・高名会席盡 (まつのすし) 
歌川豊国(三世)/安藤広重(初世)
うしろの桶に箱ずしと取り分ける小皿が描かれています


文政十三年(1830)、喜多村信節(きたむらのぶお)が書いた随筆集 『嬉遊笑覧』 (きゆうしょうらん) に、《文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し・・・・》 とある。
文化年間は1804年から、1818年の間だから、およそ1810年頃、『松がすし』 という店ができてから、世の中のすしの様子が一変したというのだ。
これが握り寿司の誕生を伝える記録だとする説がある。


同時に、『与兵衛ずし』 の店主、花屋与兵衛という人物が握り鮨の発明者とする説も存在している。
これが通説だが、確実な証拠があっての話ではなく、伝聞の記録や言い伝えである。






初代店主の与兵衛は1799年に福井に生まれ、江戸へ出て、文政年間(1818〜1830)、両国に住み、やがて小さな店を開いた。この店が江戸前の握り鮨の元祖の店と伝えられているのだ。
文政十年(1827)の川柳集 『柳多留』 (やなぎだる) には、
 「妖術という身で握るすしの飯」 という句がある。
妖術とは、すなわち忍術。忍術使いが両手を目の前に握りあわせてドロンドロンと印を結ぶ、その様子に、握り鮨を握る調理人の姿がそっくりだ、というのだ。この年には握り鮨があったばかりでなく、すでにポピュラーな食べ物だった確固たる証拠である。

いったいに、文化・文政期は、現代の大衆消費文化の原型が江戸の町ににわかに花開いたといえる時代であった。
商店街、盛り場、芝居寄席小屋ができたし、花見、月見、花火見物という庶民の楽しみが定着し、日のある間はあらゆる物売りの声が小路に絶え間なかった。

外食産業も驚くほど盛え、料亭、一膳飯屋、居酒屋、茶店などのほか、屋台の店が増えた。
橋の袂、四つ辻、町木戸、風呂屋の前など人の集まる場所には、蕎麦、うどん、おでん、天ぷらなどを売る屋台店が自然発生的に集まり、数多くの鮨の屋台店もできていったのだ。


上方の箱すし、押しずしが、早ずしに変わり始め、が広く使われるようになって、鮨の熟成はよりスピード化されるようになった。
そういう環境下で、屋台の鮨屋の誰かが、刺身と鮨飯を手で握り合せるという工夫を考えついたに違いない。
これが江戸っ子に評判となり、新しいファースト・フードとしてたちまち広まっていった。
松がすし』 や 『与兵衛』 は記録に残る鮨の名店だが、おそらく屋台店で誕生した握り鮨を完成させた繁盛店だったのだろう。
つづく

安宅まつがすしの図 豊国(三世)左端の娘が鮨の桶を持っています
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